開拓時代の鰊御殿に行ってみました、

北海道の日本海側は古く江戸時代からニシン漁で栄え南から松前、寿都、岩内、泊、余市、小樽、石狩、留萌と一攫千金を夢見た和人が入り込み、裸一貫から成功し建てられた鰊御殿(番屋)があちこちに残されています、今回見学したのは小樽・日和山灯台にある小樽鰊御殿(田中福松)です、ここは市で管理され小樽水族館の隣りで、1958年積丹の泊村にあったのを解体移設されました。

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一時ニシン漁が途切れて幻の魚となったが、近海では回復の兆しで、今年2月市内の張碓付近で群来の現象が見られ産卵で海面の色が変色した、3月には追いかけて来た海馬が石狩漁港の一部を占拠し漁業に被害を与え、3月末には泊でニシンが獲れて久しぶりに浜は大漁で賑わった等、最近は小樽沿岸で獲れている地域限定の鮮度の良いニシンの刺身は美味で楽しんでいます。

この建物は現在障子・襖は取り外されて広々としていますが、当時の仕来りで網元家族の住む空間、大船頭などの幹部の空間は畳敷きで、船頭や一般漁夫の住む空間は板の間の炉端で食事し酒を酌み交わした様で、わかりづらいのでそれぞれに別けて紹介します、末尾に平面図を添付しますので参考下さい。

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1枚目 網元の正面玄関で漁夫の出入り口は別で旗のあたりに、2枚目 幹部の部屋に当時の服装のミニチュアが多分オリジナルで好きな方にはたまらない、3枚目 漁場の要の大船頭や帳場がいる場所です、その前が幹部の茶の間(解説テレビと火鉢の部屋)の隣が酒部屋と続いています、酒部屋の隅に幹部の寝室の階段が見えます、当時は襖で仕切られ畳み廊下を通り行き来した様です。

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神棚は茶の間にあり、そこから奥側が網元の居住空間になります、下は反対から見ていて左手の人力車のある場所が正式な玄関となります、昔は冠婚葬祭の場所が無いのでその時には襖を取り払い結婚式や葬儀を行ったのでしょう、梁が低くて頭がつかえそうですが案内の人と話したら酒を飲んで喧嘩になり刃物を振り回せない様に低いとかでびっくりです、武家屋敷もそんな話しも?

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二階に上がり網元の客間・客の寝室と奥に若夫婦の住居があります、その一部にどんでん返しの「隠れ部屋」があります、諸説ありますが大漁で大金の保管・侵入者や災害からから家族を守る頑丈な作りで、漁夫の部屋にもあつてこれは腕が良くて引き抜いた者・逃げてきた者を隠す等に使われたようですね。

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漁夫の空間で写真1枚目は展示品があり長押に櫓の飾られた壁が漁夫達の仕切り壁で中央の明るい方向が幹部の部屋、2枚目船頭の部屋か隣が酒部屋、3枚目に厳しい規定が書かれてます、4枚目に漁夫の寝る天井部屋があります、120人も寝る蚕棚の構造と思われて興味を持っても登れませんでした。

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上は北前船の見本で、こんな小型船で積丹半島の荒れる海を乗り越え食料・生活品を運び帰りは数の子や魚滓を満載し運んだ、下はニシン場の様子ですが簡単な定置網で縦に出した網にぶっかった魚は習性で網に平行して移動し網の中に誘導され一網打尽となる、原始的ですが魚が濃かったのでしょうね。

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小樽近郊の鰊御殿(番屋)です、上から順番に ①札幌の開拓の村にある小樽・旧青山漁業住宅 ②小樽・旧白鳥家番屋 ③余市・旧猪俣鰊御殿・(現在小樽市・ 温泉旅館・銀燐荘) ④余市・旧福原漁場

参考資料、小樽市鰊御殿・平面図 1891年(明治24年)から7年かけて建築され、この建物は総面積約612㎡(185坪)あり道産原木や弁財船で運ばれた檜など540トン使われ、30坪の家なら20軒分と豪放ですね、現存する家屋で大規模なものだそうです、屋根の中央は見張り台にあらず入母屋造りの煙り抜きです、この漁場は最盛期には15~18ヵ統(1ヵ統に35~40人)あって村人を入れ推定700人以上が従事し1万石(7500トン)の水揚げがあった様です。
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庭の早いツヅシが咲きました、最後まで見ていただきありがとうございます。

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